株式会社伍魚福 代表取締役社長

地域・社会とのかかわりについて読書メモ雑感2023.06.03(Sat)灰谷健次郎と妙法寺小学校その2・「兎の眼」・「太陽の子」

神戸市内の小学校では、今日が運動会というところもあるようです。
この写真は、12年前のブログに掲載した私の母校、妙法寺小学校の運動会のプログラムと学校からの手紙です。

妙法寺小学校の運動会で歌う歌があります。
「若きいのちー運動会讃歌ー」と言うものですが、作詞は「兎の眼」などの児童文学で有名な灰谷健次郎さんです。
この歌について12年前に書いたブログ記事があります。
灰谷健次郎さんが妙法寺小学校で教員をされていた1956年(昭和31年)4月からの3年の間に作詞され、1957年(昭和32年)に赴任してこられた西川光三さんが作曲、それ以来歌い継がれてきたものです。

たまたま、私の12年前のブログについて、インスタグラムのストーリーに取り上げていただいた方がおられて私も久しぶりにこの記事を読み返しました。
改めて「灰谷健次郎 妙法寺小学校」で検索してみたところ、とてもおもしろい論文や書籍の記述を発見しましたので12年ぶりのブログ続編です。

まず、甲子園短期大学紀要No.24(2005)に掲載されている「灰谷健次郎における教師-子どもの関係性理解 --新任教師時代を中心に--」著者 園田雅春から。

——–以下引用——-
「当時、妙法寺小学校は、白川小学校、多井畑小学校とあわせて「神戸奥三校」または「奥御三家」と揶揄されるへき地校で、1学年2クラス、教職員16名、全校児童150名ほどの小規模な学校だった。教員採用試験で高成績な者は、いわゆる「名門校」に配属され、そうでない者は周辺校へという時代に、灰谷は都市部から遠く隔たったへき地校に配属されたのである」
———————-
私が妙法寺小学校の校区に引っ越したのは、1971年(昭和46年)。
当時新しく開発された住宅団地の一角です。
公共交通機関は三木街道を通って板宿経由、国鉄神戸駅に至る「市バス5系統」のみ。
私はまだ4歳、長田区のたかとり幼稚園まで市バスで通っていました。
私の小学生時代に横尾団地が開発されるとともに市営地下鉄が開通、人口が増えていきました。

灰谷さんが赴任した1956年(昭和31年)は、その15年前。
本当に「へき地」だったに違いありません。
灰谷さんは「受験競争のはげしい都心の学校の喧騒と呪縛から逃れて、のんびり新米教師生活がおくれたのがありがたかった」と述懐されています。

22歳で教員になった灰谷さんは、妙法寺小学校で「友だちのような先生」というスタンスで子供たち、その保護者と向き合います。
「学級通信」を発行してのコミュニケーションや、宿直の際に子供を泊める、保護者と夜に語り合う、自然学習園(学校の裏山)での活動、休みの日には児童と一緒に高取山に登る等、現代では考えられない濃密な教員活動をされました。

「(略)先生というのは社会的なイメージでは、きちんとしている人というイメージがあるからね、そういう先生とは僕はちょっと違っていた(笑い)。自分は神戸の下町出身で、ざっくばらんな性格だとぼくは思ってるんだけど、(略)どちらかというと決まりや規則、虚飾、あるいは建前、そういうのを嫌うタチですからね。先生らしくない先生であったことは自分の口から言うわけにもいかないですが、(略)子どもに対するそういう接し方、またはそのような生き方をしていたようです」

著者の園田氏は、この論文で以下のように結論づけておられます。
——–以下引用——-
新任教師時代から、灰谷は表現教育を中心にして子どもや保護者との関係を形成したのだが、「先生らしくない先生」という表現が端的に示すように、つとめて自分と子どもや保護者との距離を短いものにしようと心がけていたことがうかがえる。「制度文化の体現者」としての教師性に抵抗し、自己の人間性を前面に投げ出そうとする姿勢は、アプリオリな側面であると同時に文学を志す青年特有の超俗性によるものと考えられる。
———————-
「アプリオリ」とは、先天的なというような意味だそうです。
灰谷さんの生き方を感じる評論です。

続いて、「いのちの旅人 評伝・灰谷健次郎」著者:新海均という書籍から。
一部がウェブで公開されていたので読むことができました。

1956年(昭和31年)、文部省は教員の勤務評定実施を決め、翌年から実施を強行しようとします。
これに対して日教組を中心に全国的に激しい反対運動が繰り広げられたそうです。

灰谷さんは、妙法寺小学校に赴任した翌年の1957年(昭和32年)、この「勤評闘争」に加わり、妙法寺小学校の組合責任者となります。
事前の打ち合わせでは、組合員である教師全員がストライキに賛成し、組合大会に参加することになっていたのに、当日参加したのは灰谷さんのみ。
同僚の教員に裏切られた形になったのです。

結果として、報復人事が行われ、灰谷さんは妙法寺小学校からの転勤を命じられます。
灰谷さんは猛烈に抗議したものの、撤回されることはなく、1959年4月、東灘区の本庄小学校に転任します。
1961年、本庄小学校が分割されてできた東灘小学校に移ってからは、退職する1972年までそこに勤務されました。

灰谷さんが妙法寺小学校に3年しかおられなかった背景には、このような事情があったのです。
妙法寺小学校の子どもたちやその保護者との親しい関係が断ち切られることについて、忸怩たる思いがあったことは容易に想像できます。

灰谷さんは、この「勤評闘争」のころから小説を書くようになり、1959年11月、25歳で小説「幼美神」で中国新聞第9回新人登壇文芸作品に入選されます。
その後、さまざまな紆余曲折を経て1974年「兎の眼」で児童文壇にデビュー、100万部を超えるヒット作となります。

灰谷健次郎さんは、妙法寺小学校やその裏山の自然教育学習園のこともエッセイに書かれているそうです。
妙法寺小学校の卒業生としては、とても気になりますね。
灰谷さんの作品を含め、探して読んでみたくなりました。

2023年6月4日追記:
誰が買ったのか記憶にないのですが、灰谷健次郎さんの「兎の眼」(角川文庫 平成13年 7版)、「太陽の子」(角川文庫 平成20年 17版)が家にありました。
この2日間で、その2冊を一気に読みました。
灰谷さんの17年間の教師生活、長兄の自死、アジア・沖縄で放浪したこと、さまざまな体験がこの2つの作品に散りばめられているように感じます。
作品に登場する子どもたちは、灰谷さんが教師生活を過ごした妙法寺小学校、本庄小学校、東灘小学校に実在したのかもしれません。
また、どちらの作品にも小学校の教師が登場します。彼らは、灰谷さんの分身でもあるような気がします。
「太陽の子」は昭和50年ごろの神戸が舞台です。主人公の「ふうちゃん」は小学校6年生。
私は昭和50年には小学校3年生。当時は沖縄戦のことも何も知らない呑気な小学生でした。
今さらですが、この2冊をきちんと読むことができて本当によかったです。
不思議な巡り合わせに感謝。